村田はインタビューで「勝つということは相手を踏みにじり、その上に自分が立つということ。勝つ人間は責任が伴う」と、高校時代の恩師で2010年に亡くなった武元前川さんの教えを口にした。試合を見守った武元さんの妻敬子さんは「重圧の中、本当に頑張った。いつまでも謙虚」と感極まった表情を浮かべ、コーチだった西井一さんは「本人も苦労してここまで来た」とねぎらった。(参照:日刊スポーツ)

再戦の経緯 前回5月の対戦では村田がエンダムから4回にダウンを奪い優勢な試合運びをしたが、1―2の判定負け。不可解な判定が物議を醸し、翌日にWBAのメンドサ会長が自身のツイッターで自分の採点(117―110で村田を支持)を公表するなど再戦指令を出し、8月3日に異例のダイレクトリマッチ決定が発表された。ジャッジは、有効打の多かった村田よりも手数の多かったエンダムを支持したとみられる。(参照:スポーツ報知)
このような経緯を経ての今回のリベンジマッチ。
前回もこのような国民が首を傾げたり怒ったりしている中、彼は反論もせず、次の日から練習をスタートしたという。
何とも男気に満ちた彼にフォーカスを当ててみたい。
■どんな人(略歴)
- 1986年生まれの3人兄弟の末っ子
- 小学校六年生の時に両親が離婚し、その後すさんだ生活をしていた
- 中学の先生から「なにかやりたいことは?」ときかれ、「ボクシングなら」と。これがボクシングを始めたきっかけ
- そのご中学の先生に地元の高校のボクシング部に連れていかれたが二週間でやめる
- 再度年生から大阪の進光ボクシングジムでトレーニングを始めた。
- 南京都高等学校に進学してここで恩師(武元前川さん)に出会うことになる。
- 高校2年時で選抜・総体・国体の高校3冠を達成。3年時で選抜と総体を制して高校5冠を達成
- 東洋大学経営学部経営学科へ進学しボクシング部に所属。2004年に全日本選手権初優勝
- 2005年にはキングスカップ銀メダルを獲得
- 同年アジア選手権にミドル級(75kg)で出場し銅メダルを獲得
- その後敗戦が続き2008年北京オリンピックの出場権を獲得できなかったことで現役生活からの引退。
- 2008年3月に東洋大学を卒業。学校法人東洋大学に就職し大学職員 兼 ボクシング部コーチとして勤務。
- 2009年1年半ぶりの現役復帰を決意、2009年から2011年にかけて全日本選手権で3連覇を果たす
- 2011年7月のインドネシア大統領杯にミドル級(75kg)で出場し初の国際大会優勝
- 2012年ロンドンオリンピックで金メダル獲得!
- 2013年プロテストマッチを受け、プロボクサーへ転向
▲家族は
奥さんと男の子女の子の子供がいます。
インタビューでも、子供の話をしていましたね。
■今回の対戦は
<プロボクシング:WBA世界ミドル級王座決定戦12回戦>◇22日◇東京・両国国技館
12年ロンドン五輪金メダリストでWBA世界ミドル級1位村田諒太(31=帝拳)が王者アッサン・エンダム(33=フランス)を7回終了時の棄権によるTKOで下した。
インタビューでは、「泣いてません」からはじまり、みんなに感謝の意を称していました。とっても嬉しそうでしたね!
対戦相手のエンダムとも友達だという発言
なんといっても今回の格言は、これだと思います。
「勝つということは相手を踏みにじり、その上に自分が立つということ。勝つ人間は責任が伴う。彼の分も責任を伴ってこれから頑張っていきたい。」
ボクシングとか格闘技をみていると、相手が失神していても、アドレナリン出まくりの勝者がリングを駆け回り、敗者はぐったりとリングを降りる。みたいな印象が強かったので、先入観たっぷりでみていた、そんな自分にびっくりして少々我に返りました。
なおかつ、このたびの選挙特番と重なっていて、当選落選で出てくる議員さんの一言コメント入りの顔写真をみたりしていたので、
このギャップと彼らの言葉の重みと、村田選手の言葉の重みが全然ちがうような気がしてなんだか、
不安になるとともに、今後も彼を応援しよう!という気持ちになりました。
今後もがんばってください!
また、バラエティーなどでも彼の面白いトークもみれそうですね!楽しみです。